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文学に登場する富士山はいつも同じ山か

2021/07/30

先日、「文学の中の富士山」という企画展を見るため、山梨県立文学館を訪れました。私はお世辞にも読書家とは言えない部類の人間ですが、芥川龍之介や太宰治といった誰でも知っているような文豪の書簡や、『日本百名山』の深田久弥の展示もあり、夢中になって楽しめました。

富士山をテーマにしたさまざまな時代の作品を見比べるうちに、はたして富士山に持つイメージはいつの時代でも共通しているのだろうかという疑問がわいてきました。例えば竹取物語。帝はかぐや姫から不老不死の薬をもらいますが、かぐや姫のいない世界で生きていても意味がないと、月に一番近い富士山頂で薬を焼いてしまう場面があります。(富士と不死をかけたシャレです。竹取物語にはたくさんのシャレが登場します。)山頂から昇る煙が今も立ち昇っているとして物語は締めくくられます。

これは明らかに富士山頂から昇る噴煙を見て考えられたストーリーです。実際に、竹取物語が成立した平安時代の富士山は噴火活動が活発で、800年ごろに延暦大噴火、860年ごろに貞観大噴火を起こしています。この時代の富士山は、いつ火を噴いてもおかしくない「動」の山だと認識されていたのではないかと想像します。一方、明治、大正、昭和の文豪は富士山の噴火を見たことはないでしょうから、近現代文学史に登場する富士山は、おそらく「静」の山だという共通認識に則っていると考えるのが自然でしょう。舞台装置として富士山の噴火を扱うとしたら、『日本沈没』のように特別な意味を持つことになります。

山の状態が変化する以上、物語に登場する象徴としての富士山を読み解くとき、現代の感覚が当てはまらないことがありそうです。この時代の人は富士山にどんなイメージを持っていたかを想像しながら古典を読むと、物語が一層楽しめそうです。